昭和44年11月28日 朝の御理解

御理解第61節 神より金光大神に、いつまでも尽きぬおかげを話にしておくのぞ。信心しておかげを受けたら、神心となりて人に丁寧に話をしてゆくのが、真の道をふんでゆくのぞ。金光大神が教えたことを違わぬように人に伝えて真の信心をさせるのが、神へのお礼ぞ。これが神になるのぞ。神になりても、神より上になるとは思うな。

神より金光大神にいつまでも尽きぬおかげを話にしておくのぞ。金光大神に、いつまでも尽きぬおかげを話にしておくと。信心しておかげを受けたらとこう、信心してここで受けるおかげをというのは、どのようなおかげのことをさしておられるのであろうか。いつまでも尽きぬおかげを話にしておくとおおせられる、尽きぬおかげとはどうゆうようなことであろうか。(そのところを?)分からして頂きたいと思うですね。これは、ただ信心しておかげを受けるとね、様々な願い、例えるなら病気なら病気で、難儀をしておる。もう(お導き?)を頂いて助かる。助かったから(? )の喜びが(どうゆうあいらわれ?)というか、ね、そこに、また病気難儀をしておる人に、日々お参りをしてごらんなさい。おかげ頂きますよというて、丁寧にそのおかげを受けたことを話して、お導きをしておる。

(ところくに?)それで、その真の道を踏んでいくのぞ、ということになります。ね、そうゆうことは。だからですね、ただ簡単にならご利益受けて、そのご利益を受けてその喜びが人に伝えてお導きがでけたというだけがです、真の道を踏んでいくのぞというようにな、少し。それもそうでしょうけども、これにはもっともっと深い意味があるように思う。いや深い意味という、もっと本当の意味がここにあると思うんです。ね、ただここを一遍だけしてもらうと、私共がおかげを受けたことを人に伝えて、お導きをさせる、させて頂くとゆうことだけに、とらえますし、聞こえますけども、ここにですね、いつまでも尽きぬおかげを話にしておくのぞ、というとこがですね、ただおかげを話しにしておくとくというのじゃなくてから、尽きぬおかげというところ、を考えますとですね、これは私共が、金光大神話しというのはですね、尽きぬおかげを頂ける話し。

(  ?)その尽きぬおかげを頂けるお徳を受けられる話しなのだ。ね、尽きぬおかげっていうのは、その前章、御理解第60節のところにも、「おかげは受けどく受け勝ち」とこうあります。ね、おかげは頂き儲けといったようなことでは決してないです。おかげは頂いたようであっても、信心が基に戻ってしまうとです、ね、また基にそれを戻す。おかげまで戻してしまわなければならない結果が生まれてくるという事実は皆さんも知っておられるとおりです。ですから、受けどくじゃないでしょうが。受け儲けじゃないでしょうが。ね、ですからここはそうゆう意味じゃなくてです、やはり徳を受けてものが勝ちという意味なのです。ね、受けどく受け勝ちというのは。徳を受けたものが勝ちなのです。ね、ただおかげでないことが、まぁ分かりますようにですね、ここで「いつまでも尽きぬおかげを話にしておくのぞ」とこうある。だからいつまでも頂けれるお話しというのは、(わたしども?)お徳を受けていく、お話しであり、お徳を受けていくというおかげなのです。ね、尽きぬおかげを話しにしておくのぞ。

でないとですね、(その次?)その真の道を踏んでいくのぞ、というところにそのピッたとこんのです。そのようなふうに頂きませんと。ね、真の道とはそんな簡単なもんじゃないと私は思いんです。簡単なもんちゆうとおかしいですけど、ただ自分がご利益を受けたことを人に伝えて、お導きをしていきよる人、んんなら、真の道を踏んでいきよるのかというと、私はそうじゃないと思うんです。ね、次にはそれが神になるのぞとまでおっしゃっておりますもん。ですからね、ただそのお導きの名人というのがありますよね。本当にお話しが上手で人にどんどん信心の話しをして、お導き、お届けをする人がありますが、その人が必ずしも真の道を踏んでおると思われないし、それが神になるのぞといったような、素晴らしいことになってないという事実も皆さんの周囲をみれば分かることでしょう。

ですからやはり一番初めのところのですね、頂き方というものが、もう一つここのところを深めて頂かなければならないことが分かります。いつまでも尽きぬおかげを話にしておくのぞ。いつまでも、いつまでも限りなく無尽蔵に頂けるというのは、お徳を受けなければできやしません。無尽蔵におかげの頂かれるもとが、金光大神の話しによって分からせてもらう。ですからどうでも金光大神の話しを聞いて、その話を行の上に現して、ね、忠実にその教えを守らせて頂かなければです、おかげを受けられないおかげなのです。ここでは。尽きぬおかげというのは。(どうじに?)神心となりてというところ、神心なりて人に丁寧に話して、話しをしてゆくのが、というところがね、また考えさせられます。これほどだ、自分がおかげを受けてきた喜びを嬉しさを人に伝えていくと、なるほどこれも有り難いし、またそれを神心じゃないとは言えません。ね、人が助かることを思う一念ですから。やはり神心でしょうけども。私はそうゆう親切とかそうゆう意味じゃないと、ここで言う神心というのは。

ここの神心というのはね、神の心になってということです。私はそう思うですね。今日は。私共が例え親の願いを受ける。受けて親の願いに副うていくというようにですね、神の心が分からなければならん、まず。神様の御心を分からせてもらう。それで自分がその神様の心になって、神様ならばどう思うてござるじゃろうか。どう言いなさるじゃろうか。どうしなさるじゃろうかと、一変神心になってとは、神の心になってということだと。だからここんところも、今日は全然違いますね、いつも頂きますご理解と。それには、私共がよくよくお話しを頂いて神様がどうゆう、いわば御性格の私共が拝ませてもらっておる、天地金乃神という神様はどのような御性格の神であるかということをです、よく知ると同時に、体験を通してそれを確かめていかなければいけなん。それでそのなら親心となりてということにもなるかもしれませんね。神心とは。親が子を思う切実心を持ってです、神の心を持ってです。神様にいうならなりかわってです、ですから神様の心が分からなければ神様になりかわることはできません。

神様になりかわって、そこに難儀な氏子があるならば、その難儀な氏子に神心となって、神様になりかわって、ね、人間と神様の関係とでも申しましょうかね。その関わり合いというものを、よくよくお話しをして分からして、そして真の信心をさせるということにならなけらば、これならばなるほど真の道を踏んでいくのだということが分かるですね。真の道を踏んでいくのだと、ただおかげを受けたこと、(  ?)果たしていくのが真の道、それではあまりに、ちょっと合点がいかないところがありましょう。なら自分の師匠を見て、あー中々あの人は(道ひき?)の名人だと言われる人たちがです、んなら、必ずしも真の道を踏んでおると思われない人たちがありますもん。けれどもここに私が申します、尽きぬおかげを話にしておくと、おっしゃる尽きぬおかげというのは、限りなく頂けれるおかげということでしょう。それにはやはり徳を受けなければならん。金光大神のお徳を受けていけれる話しを、しておってくださってあるのですから、その話しを聞いて、行じて、そしてやはり身に徳を受けていくところの、信心修行をなされて、おかげを受けたらと。

そうゆうおかげを受けたら。またそうゆうおかげを受けて神心となりてというところは、ね、神の心になりかわって、ためには神の心をまず分からな。神心とはそうゆうことだと、ここでは思う。でなかったら、次の「話しをしていくのが真の道を踏んでいくのぞ」というところにですね、あてはまらない気がするんです私は。真の道を踏んでいくのぞ。真の道を踏んいきや、いよいよ真の信心、真のおかげが頂けれる。真の道を踏むためには、まず真の人にならなければならん。真の人になるためには、一番初めの尽きぬおかげの頂けれる話をよくよく聞かなければならんということが分かる。金光大神が教えたことを違わんよう人へ伝えて真の信心をさせる。また自分と同じようにです、神心の分かる、神心の分かる信心に導いていくということ。それが神へのお礼ということがまぁ分かりますけれども、神にお礼お礼が神の神へのお礼ぞと、ね、これが神になるのぞというところとピッたとくるでしょうが。

なるほどそうゆう生き方すりゃ、なるほど神になるのぞということが分かります。なるほどそれじゃそうゆう生き方こそが、いよいよわが心が神に向こうていくのであり、いよいよ神になっていく信心ということがいえます。神になりても、神より上になるとは思うなと。これは、そのように間違えのない例えば生き方をさせていきよりましても、人間は中々間違えがいつの間にかでけてきたり、いわゆる思い上がりがでけてきたりして、間違った考え方になってはならないことを、最後には(こいよ?)一本(うってござる?)という感じがいたしますね。神より上になるとは思わん。いわゆる慢心をいよいよ進めさせて頂いて、神になっていくにおいても、ね、堅実に一段一段と神になっていく。またこの神ということになるとまた非常にまた、色々意味がありましょうけどね、どこまでもここでいう神というのは、わが心にござる神の成長といことと同時にです、ね、この方生神金光大神がだけが生神ではない。みんなもそのようなおかげを受けられるとおっしゃる神なんですね。

ですから本質的にですね、その神より上になると思うなという神とは本質的に違うんですよね。ここでいうのは、天地金乃神のことですよね。金光大神が生神とまた神というておられる神は、私共が人間が目指していけれる神なんですね。(    ?)神様に近づいていくその過程。いうなら私の心の中に、信心の喜びいっぱい頂けれる、もうそれをさして神とも感じられます。信心の真に有り難いなーという心、もう即それは神なんですね。それを持続していくことが、稽古が信心の稽古というてもいいです。ですからそうゆう意味合いにおいてもです、私共が尽きぬおかげとを話しにしておくのぞ。信心しておかげを受けたら神心となりて人に丁寧に話しをしていくのが神へのお礼。このようなところがですね、今日はいわゆる御理解第61節の(いちこうさつ?)ですね。というていいです。この表面にでておるところ、もう一つ向こうの方をですこれは、私は深く考えてみたんです。

深くさっしてみたんです。だから一考察です。そしていよいよそれのほうが本当だなーと、こうゆうことが分からせて頂くときにです、初めて金光大神の言葉というのが、どのくらい深いまたは(おみにもの?)を持っておるか、その内容が深いものであるかということが感じられますね。昨日はそのご理解がテープに収録でけておりません。のが、レコードが故障しとったらしいんです。ですからあれは速記あれは全部写して、テープレコーダとそれから書いたものを残していく、御用を末永さんがいたしておりますから、先生、今日の御理解をもう一編話して下さいっちて、今日の御理解は絶対話は(でけ  ?)ますよ。思い出しきるでしょ。(  ?)話しじゃない。昨日なんかもありゃ、立教神前の最後のところのありゃ一つの一考察ですよ。ね、そうゆう一つの見方、そうゆう考え方、そして後で考えてみれば考えてみるほど、なるほどそれは本当だということになってくるのです。もうまたそうじゃなかなければ金光教の特異性というのはないんです。

そうでなかなければ、金光教がいくら世界の(めいきょ?)だといばったってです、そのような頂き方をしなければ(めいきょ?)としての値打ちはないですよ。例えば昨日の御理解でも。そのように頂くから、ははーここまではあらゆる様々な宗教を持って(満たされる?)けども、これから根のところが金光教でなかなければなしえないところ、分かれないところというような特異性を持ったものだと。ここがときえるというか、そこんところを分からなければ、そうゆう考え方を持ってその御理解、御教え、または御神訓を頂かなければね、金光教の本当の特異性というのは、でてこないのだというにすら私は感じましたが、今日の60節のこれはほとんど、真の道を踏んでいくのぞ。金光大神が教えたことを違わぬように人に伝えて真の信心をさせるのが、神へのお礼ぞ。これが神になるのぞ。というところをですね、今日は頂いたわけです。でないとですね、つじつまがあわない。(かた?)を導きさえしとれば、その真の道を踏んでいきよるのだということに考えられます。

また、ほんならたくさんお導きをした人は、もう(すごい?)神になっていくっちゆうなら本当に立派な神様になっていくだろうけども、一つもその人間的にいうても一つの(  ?)しござらんという人もありますもんね。だからそうなってくると、この教えは嘘になってくるのです。けども今日私が申しましたようなところをですね、私は頂いてまいりますなら、なるほどこれこそが真の道だろうと思うでしょうが。真の道を踏んでいく。それが真の道を踏んでいくのぞ。またはなるほどこれならば、神になるのぞとおっしゃる、神になるのぞというところがですね、あーあるほどそれならば神様へなっていく姿っていうものは、そうゆう過程を通るのかなと分かられたと思うんです。だから皆さんももう一つここんところを、皆さんの考えをここにもういっぺん深めて考えて頂きたい。だから昨日の御理解にせよ、今日の御理解にしろですね、金光教の信心というかその、御教えを頂いていよいよ考えさせられる御理解だったと思います。よく申しますでしょ。

考えさせられるなーとこう申しますでしょ。それです。昨日のご理解だって、今日の御理解だって、こりゃもういっぺんです考えなおさなければいけん。考えさせられるお話しなんです。だからみなさんがですね、そうゆう考えさせられるという私は気持ちがでられたら昨日、今日の御理解を頂いておかげ頂いておられるということが分かります。だから考えさせられなければです、例えば私自分達のことに手がとどかないほどに難しいことだというなことになってしまいますよ。昨日の話も、今日のお話でも。ただ聞き流しになってしまうんです。ところが考えさせられますとですね、考えさせられ、そして考えてまいりますとです、いよいよ本当にそうだなーと金光教の(独壇場?)といったような言葉を使うけれども、ここんところが(独壇場?)だと。ね、例えば昨日の朝の御理解を頂いておりましてもそうです。ね、親に心配をさせないというところまで、この一身上にお互いがでらなきゃならん。ね、そこからの信心。そしてそこからの信心は親に心配をかけないだけじゃなくて、親に喜んで頂くという信心。

ね、そこからあいよかけよで立ち行くといったようなことをまだそれ以下において、ずいぶん言うたり、解かれたりしておりますけどもです、そこんところからでなかなければ本当の意味においてのあいよかけよということになってこない。神も立ち行く氏子も立ち行く信心共栄ということになってこない。ね、そこんところからが他の宗教では、の(しゅみじ?)を許さないところ。教えの深さというものが。ね、神様が助かっていかれる宗教、同時に氏子が助かっていけれる宗教。だから氏子が助かっていく宗教ていうのはもう氏子が助かっていくための宗教ばっかりですはね。けれどもその神が助かっていくというような宗教は、金光教を持ってしなければ、解かれないところだし、また事実なるほど神様、これなら助かっておいでられるというふうに、考えられます。

ね、だから昨日の御理解なんかでもです、まぁ昨日から(ふきょういち?)昨日、色々皆さんも考えられたことだろうとこう思う。もし、ただ聞いただけであったなら、もういっぺん皆さんところところでの、あの(だんと  ?)こうして、書いておられますから、それをもういっぺん出してみてですね、はーここにお道の信心の、いよいよ有り難いところ、いわゆる独壇場があるんだと。今日の御理解を頂きましてもです、もう本当に考えさせられるなーと。自分達の考え方が浅いなーと本当に考えさせられて、そこからでてくる答えをです、本当に自分のものにしていくという精進をいよいよさせてもらう、意欲が湧いてくるようなご理解でございましたよね。今日の場合でもそうでした。ですから、(はら?)一生懸命、私ですからあの、(きょうがくけいい?)会の方達が、昨日、今日の御理解を取り上げられて、あのもっともっとですね、誰にでも分かるように、な、(きょうがくてき?)なものにしていって下さい。と有り難いと申し、または、あの研修会なんかのときに取り上げてです、もう二遍も三遍もここんところを繰り返して、お互いのものにしていく。

はーそうだなと。金光様の信心はそうだと。簡単に頂くと、神より金光大神にいつまでも尽きぬおかげを話にしておくのぞ。信心しておかげを受けたら、というふうに頂いてまいりますと、ただあの、お取次ぎを頂いて、おかげを頂いたらですね、それをその人に伝えていくということだけぐらいにしか考えてなかった。今までは。皆さん、それも有り難いことなんですよね。やはり、お導きですから。けども、それがですね、神になるとか、真の道につながるとは、ちょっとおかしいんですよ。今日私が申しました、そのもう一段向こうにある、教祖の言葉のもう一つ向こうにある、いわゆる言外の言をですね、私どもが分からしていただいて、はーそうゆう分かり方をすると、これはなるほど真の道へと、本当にこれだろうな、神になっていくとはこのことだろうなと。なるほどこれが神に、神様への一番のお礼になることであろう、また自分たちも神になっていくとはこのような道を踏んでいくであろうということが、つじつまの合った、言にあったその頂き方、考え方ができる。教祖のお言葉、いよいよ深さ、そのもつその重量感とでも申しましょうかね、限りのない、そうゆうようなものを今日は61節から頂きました。どうぞ。

大坪真理子